おちこぼれ国立理系大学生が卒業するまで

これは、落ちこぼれぼっち国立理系大学生が卒業するまでの黙示録であるーー

人生の本質について考えてみた。

こんばんは、久しぶりにブログを書きます。

らみーという名前でやっています、よろしくお願いします。

 

本日は、タイトルの通り人生の本質について考えてみたいと思います。

これを考えようと思ったきっかけは、自分の行動が無意味だと感じたからです。

大学に入ってからこれまでの3年間、何か成したことはあったかと考えると、人に胸を張ってこれだ!と言えるものが何もないのです。

本当に何もないのかというと、対人関係のことや物の価値観などについては得たものがあったと思っていますが、そういった無形なものではなくて、友人や恋人、先輩後輩や大人との関わりといった人脈のようなものや、知識や資格、スキルというような一般的に(私の思う一般的の範囲内で、ですが)評価されるようなものが特にないのです。

で、なんですが、このような何かを得たか、そうでないのかという考え方自体が不健全なのではないかとも思うようになっています。

このような考えに至る原因として、他者との比較から、という面があります。理想の自分との乖離ともいえるでしょうか。

このようによりよい自分になりたいと思うことは善なのか悪なのか、そのどちらともいえるんじゃないでしょうか。善だという考えは、劣等感や自己顕示欲が自己の原動力になるならそれでいい!結果として良くなるなら何の問題もないじゃないか。というものです。

悪だという考えは、劣等感や自己顕示欲を不純なものだとし、もっとピュアな動機、純粋なハートに従って行動すべきだ。という考えでしょうか。

私としてはどちらの考え方も納得ができるというか、いいと思います。

ただ、白黒はっきりさせるならば、私は善だ、という考え方です。

ここでようやく話の本題に入ります。この、劣等感や自己顕示欲が自己の原動力になるならそれでいい、という考え方は、人生の本質が「勝負」であるということではないでしょうか。

そもそも人生というものは受験や就職、出世をはじめ、あらゆるコミュニティー、恋愛とありとあらゆる場所で競争が発生します。

そんな世界で人生の本質が勝負でないはずがないじゃないですか。そしてその勝負に負けたものは開き直って自分を正当化するために、劣等感や自己顕示欲は不純!という考えに陥る、みたいな。

だから私は人生は勝負だと思うんですよねぇ。

対戦相手が友人なのか見知らぬ人なのか上司後輩なのか自分なのかは場合によると思いますが、自分がそれを勝負だと思わなくても起きてしまった、生きてしまった以上は勝負は行われています。

それらに勝たなければ、全勝とはいかなくてもせめて勝ち越すくらいはしないと人生における負け犬になってしまうと思います。

もちろんこの考えを他者に強要したり当てはめてお前は負け犬だ、なんていったりはしませんが、自分的には自分は常に何かと闘っている。と感じています。

この論に従うと、現在の自分は負け犬なんですが、それを改善しようと今思慮を巡らせてそしてブログを書いて整理してみています。

私の尊敬する人物に、格闘ゲーマーのときどさんという方がいらっしゃるのですが、彼はトップレベルのゲーマーでありながら東大出身という経歴の持ち主です。

私からすれば彼は公私ともに超一流のように見えるのですが、当の本人からすれば受験勉強を頑張っていたのはゲームをすることに対して文句を言われないようにするためだったそうです。

私はゲームも大好きですし、勉強もニガテではありませんがどちらも中途半端で他人に誇れるような水準で行っているわけではありません。

こんな半端な態度でいいのかと、常々思います。

でも、その両方を高いレベルでこなすことは簡単ではありません。

そもそも自分がそんな高いレベルを目指す意味があるか?という負け犬の思考が脳をよぎることもしばしばあります。

ただ、この勝負の世の中で、そんな思考をはびこらせてはいけないのです。

自分にとって辛い選択だったとしても、勝つために、他人に文句を言わせないために、自分の言い分を通すためにはやらなきゃいけないことなんです。

だから、今から自分は頑張ることにします。

考えがまとまりましたかね、結局自分は勝負事が好きってことなんでしょうかね~。

とりあえず自分の想いを他の何かのせいで邪魔されないように頑張ろうと思います。

またなにかあれば書きます。